印 mudrah ムドラー
形態模写をして、無心になると、その形態に適合した情報解釈をするための評価尺度が自己の内部に構築される事を利用する方法。それが印である。
Things
form replication
人間機械論
人形を作って自分の身代わりをさせるという考え方は、自らと同じ存在が、同じ評価基準で評価されるという前提に立った人間を多く生み出すことになった。
多様な評価基準が必要な状況では動作しにくいので、できるだけ一つの基準がどこまでも通用する砂漠のような地形を好むようになる。それは、そこに多様な評価基準を人間が解釈することを助けるという考えを持ち込みにくくする。
人形を使って自分の身代わりをさせ、自分と同じ判断をするのではなく、自らの解釈も常に加えるように集合知の一部として使う方向に発展するのが良いと思う。身代わりと考えている時点で、対象にのめり込んで考えるメリットがなくなる。身代わりをさせるということは、関係性を遮断しているから身代わりになるのであって、相手に没入しきってしまうと、自分が受けたくない影響も受けてしまう。それは、自分に悪影響が後から及んでくることを肯定する行為だ。即時に情報を受け取り分析しなければ、排除した影響を正確に分析することは難しくなる。
身代わりを作るために人形の気持ちになっていたとしても、完全に相手に没入しているとはいえない。なぜなら、完全な融合・没入には即時性が求められるからだ。
没入すればするほど、たくさんの情報に影響されるのだから、印は没入する対象が理想的な状態でなければ機能しない印を完全に利用するためには、没入する対象全てを理想状態に置かなければならない。
私はこの印にだけ没入しているから、正しいのだというのは、浅い没入しかしていないからそんなことをいうのだ。没入には二種類あって、相手の背後にある真実に向かって入り込むのと、相手に対して入るものと二種類ある。後者が和の文化でいうところの没入で、前者が禅思想でいう相手に対する没入だと理解している。そして、和の文化というのは、その文化を了承してその内側に入って自由にやればその和の範囲内で認められるという点において、カースト制度、資本主義、共産主義と全く同じである。そして、ひとつの文化の根本が変化することなく拡大することを目指している点がその仕組みがいつか滅びることを決定づけている。
カースト制度は、カーストを決める権力が、共産主義は会議という形で力を発揮できる人間が、資本主義はお金という形で力を発揮できる人間が常に優位に立つことが正しいと沢山の人が信じて、それが実際に機能した期間だけ存続する組織体制である。民主主義も、民主的話し合いにおいて、力を握った人間が勝つという点で、これらと差がない。現在有効な集合知を一番使いこなせる人間が、どの政治体制でも優位になるが、その集合知が発展する方向を限定するのではなく、発展させた人間が評価されなければ、その評価は戦争を以って行う他ない。ゆえに、ありとあらゆる評価を戦争を望まない人間が戦争で解決しなければならないようにするのではなく、小さな競争を個人が行いたい限界まで常に行い、評価しなければ、競争の参加者が納得していないルールで評価されるし、フィードバックが参加者のために行われないから、熟達しようと努力する気が失せる。
報酬で釣っても、何かを熟達しようとするインセンティブにはなりにくいと、いろいろな研究が指摘しているし、私もそう思っている。戦争とは望まない競争すべてと言わなければ、人が死ななければ何をやっても良いという考えにつながるので、そのような見解は支持しない。
型
型というのは、情報を生成する方向性を再現できる行動パターンかつ、努力目標を無限遠に設定したものである。型は伝達する情報そのものではない。